元宝塚歌劇団出身で月組トップスターだった天海祐希さん。
父親は建設関係の仕事をされていて、母親は美容室の経営されているようです。
そんな、天海祐希さんの家族構成やエピソードを調査しました。
Contents
【天海祐希の家族構成】まとめ

天海祐希さんの家族構成をまとめました。
- 父親
- 母親
- 兄
- 天海祐希さん
- 弟
天海さんは家庭はとても仲が良かったようで、家族での“討論”が始まるとひとつの話題で夜中の3時まで話し込むこともあったようです。
【天海祐希】父親は建設関係

天海祐希さんの父親は建築関係の仕事をされており、名前は【中野重義】というようです。
ですが、2007年に肺炎のため亡くなられています。
天海さんはそのころのことを“大きな柱が1つなくなってしまった”と言っておられました。
そんなお父さんとのエピソードはこちら。
- 人情に厚く、人のことをほおっておけない父親だった
- 天海祐希という芸名は父親が決めた
- 父からの教え①
- 父からの教え②
人情に厚く、人のことをほおっておけない父親だった

天海さんのお父さんはケンカの仲裁が「三度の飯」より大好物だったと2021年に出演した「徹子の部屋」で明かしていました。
家の前には飲み屋が何件かあったそうで、家の前で争う声がすると父親と兄が家の前へ。
何やってんだ!
そう言って飛び出していったことがよくあったそうです。
天海祐希という芸名は父親が決めた

“天海祐希”という芸名はお父さんが姓名判断の本を片手に毎晩夜遅くまで悩んで決めてくれたんだそうです。
- 天海祐希さんの本名である“中野裕理”から”裕”を1文字を使用。
- 希望から「希」という文字を使用。
そこから姓名判断の要素を取り込み、「天海祐希」と「木条祐希」が候補に残ったようです。
宝塚ということもあり男役らしい「木条」を選ぼうとしたのですが、宝塚音楽学校の副校長から「スケールが大きい」という理由で「天海」が推薦されました。
そして最終的に天海祐希という芸名になりました。
父からの教え①

天海祐希さんは芸能活動をしていく上で、お父さんからこう言われていたんだとか。
“年相応”、“分相応”でいなさい
年を重ねていくと余計に言われていた言葉の意味が分かってくるとコメントされています。
“年相応 分相応ってやっぱり 大事だなと思って。”
2019年に出演した「徹子の部屋」でしみじみ語られていました。
父からの教え②
ファンの人で100円の何かをくれる人と10円のあめ玉をくれる人は、お前を応援する気持ちは一緒
こちらは天海祐希さんが宝塚に合格したときの教えだそうです。
この言葉をいつも大切にしているようで、天海祐希さんは大事な仕事の雨にはお墓参りにいくことを欠かさずにされているんだとか。
【天海祐希】母親は美容室経営者

天海祐希さんのお母さんは美容室の経営者です。
これは、天海さんの父親の家業を継がれたようで、両親が結婚するための条件でもありました。
お母さんは家業を継ぐために生まれたばかりのお兄さんをおんぶしながら学校へ通い勉強をしていたようです。
母親と旅行

天海祐希さんとお母さんは沖縄へ旅行に行ったことを「徹子の部屋」で話していました。
それは、天海さんのお父さんが亡くなられた時に、お母さんも体調を崩して入院していたんだとか。
お母さんに元気になってほしいと思った天海さんは母の親友や親戚のお姉ちゃん、天海さんの親友を誘い6~7人で沖縄へ行ったそうです。
母を励ます会

旅行の名目としては“母を励ます会”ということでお母さんの好きな音楽を聴いたり、歌ったりしたそうです。
お父さんとの思い出話で泣いたり笑ったりしたんだとか。
感情を発散でき、お母さんも元気になられたみたいで“とてもいい旅行だった”とコメントしていました。
お父さんの遺骨をダイヤモンドにした

天海祐希さんとお母さんはお父さんの遺骨から作ったダイヤモンドを持っていることを明かしています。
“いつも父と一緒にいられるような気がして”と心境を語られていて、気持ちが楽になったとも言っていました。
【天海祐希】兄弟エピソード

天海祐希さんにはお兄さんと弟がいます。
お兄さんは2歳上で家業の美容室を受け継がれていて、弟は7歳下でテレビ局勤務とのこと。
そんな兄弟エピソードはこちら。
- 血だらけで帰ってきた兄
- 弟と大事に育てたヒヨコのピーコ
血だらけで帰ってきた兄

天海さんがまだ中学生の時お兄さんが血だらけで帰ってきてとてもビックリされたそうです。
それは、夕飯の時間になってもお兄さんは帰ってきておらず、“お兄ちゃん、遅いね”という事を話していると“ただいま”と帰ってきたんだとか。
ですが、お兄さんは食事には顔を出さずに奥の部屋で立っていたそうです。
血だらけの兄にビックリ
お父さんは“何やってるんだ、開けろ”と怒り気味で言うと、しばらくしてお兄さんが障子をサッと開けると、血だらけのお兄さんが立っていてビックリ。
しかし、お父さんはお兄さんに向かって“勝ったのか”聞き、お兄さんは一言「ん」と言ったんだとか。
弟と大事に育てたヒヨコのピーコ

天海祐希さんは縁日で買ったヒヨコを“ピーコ”と名付けて弟とトサカが生えるまで大事に育てていたのですが…。
ピーコは弟に懐いて一緒に歩いていたのですが、弟がよろけてピーコにぶつかってしまったそうです。
その時ピーコの首が曲がってしまいおかしな動きをするようになったんだとか。
なんとかしなければ
その動きを見て弟は泣き出してしまい、天海さんは“なんとかしなければ”と思い、首を元の方向に戻したとのこと。
すると、ピーコは何事もなかったかのように立ち上がり歩き出したそうです。
天海祐希と家族のエピソード

天海も思春期のときは、気むずかしい女の子だった。中学2年生のとき「自分でもどうしようもない」ほどの反抗期になった。親に反抗する時期は誰にも経験はあるが、天海の場合はその期間が中学2年生から宝塚音楽学校に入学するまで、3年以上に及んだ。
こちらは天海祐希さんがスポニチで語った家族エピソードになります。
「何を言われてもしゃべらないんです。理由もたわいもない小言なんですが、うちの親は東京の下町の人間だから次から次へポンポン言うんです。それがまた気に入らない。お兄ちゃんにもあきれられて“いいかげんにしろ!!”と怒られるし。心の中ではマズイなぁ、とか思いながらもやっぱりしゃべらない」
とにかく反抗期が凄かったと天海祐希さんも語っているようで、家族に何を言われても無視をしていたんだとか。
「親元を離れると寂しくて」反抗期も終わったが「もっとちゃんと話してたらと思いますね。今では仲も良いんだけど、あの頃だからこそ話していたほうが良かったこともあると思うんです」
出典:スポニチ
家族の中が良かったと言われている天海祐希さんですが、反抗期が中学2年生から宝塚音楽学校に入学するまでの3年間ほどあったんだとか。
ですが、宝塚音楽学校に入学して、離れて生活していると寂しく感じる事もあり反抗期が終わっていったそうです。
まとめ
今回は「天海祐希さんの家族構成」について調査しました。
天海祐希さんの今後のさらなる活躍に注目したいと思います。
